NOSM Special Interview アーサー・ガゥアー
TDL.icon コンサートにおいて演奏中の音楽が盗まれるという衝撃的な出来事から一年が過ぎた。あの夜を過ごした者としてもう一度何があったのか確かめたいと思い、断られることを覚悟してアーサー・ガゥアー氏へのインタビューを企画した。 ガゥアー氏の所在はわからなかったが、かつての連絡先にへ手紙を送った。返事が届いたのは二週間後だった。手紙の消印はスコットランドから送られたことを示していた。 あの事件のあとしばらく後処理に忙殺されていたが、半年ほど前から旅に出ているという。今はスコットランドのある場所で過ごしているといい、音楽とは無縁の生活だとつづられていた。多くの新聞や雑誌から取材の申込があったが、自分でも整理のつかないこともあり断ってきたという内容だった。
実際、あの楽曲の譜面はコンサートで使用されたもの含めてすべて破棄され、二度と演奏はできなくなっている。
手紙には、一年が過ぎたということもあって承諾の旨が記されていた。
詳しい日時や場所は公表しないとのことで、インタビューは、スコットランドの某所で行われたことだけを報告しておく。
以下は、インタビューの内容である。
TDL.icon 楽譜を全て破棄したそうですね。もう一度演奏する気はないのでしょうか。
アーサー・ガゥアー(以下AG)—もういいんです。演奏は完ぺきでした。同じ演奏はできませんから。それに、また同じことが起こるかもしれません。
TDL.icon あの日、ボックス席で聞いていましたが、それまでは本当にすばらしいコンサートでした。新曲の初演があるというこで、期待もおおきくなったようです。しかし、聴衆も演奏が行われているようにみえるのに音が聞こえないことから、余計に落胆も酷いものでした。ステージの上ではどうだったのでしょうか。
AG—オーケストラはいつものように、自分たちの演奏に集中していました。もちろん、客席の様子もいつもはわかります。しかし、あの時は不思議なことに完全に演奏に集中していた。聴衆の様子は覚えていません。ほかの楽団員に聞いても曲の世界に入り込んでいた。それだけ完全な演奏でした。だからダメなんです。結局、自分たちの満足だけで終わってしまったのではないかと。聴いてくださる方たちの気持ちもわかります。
もう二度と演奏はおこなわれません。楽譜もすべて破棄しました。音楽出版社に渡す前でよかったです。あれからいくつかの音楽出版社が、楽譜を出発するように言ってきました。それもかなりの金額を言ってきてましたけどね。
TDL.icon 楽団員の分も含めてあの日の夜に破棄されたと聞いてもったいないとは思いましたけど。そういった理由があったんですね。ところで、あの現象についてはわかりますか。ステージとホールで完全に音が遮断されて互いに聞こえていなかった。何人かの学者に聞いてみましたが、現在の科学では理解できない現象のようです。
AG—まったくわかりません。オーケストラは普通に演奏していました。アルバート・ホールも初めてではありません。リハーサルでは特に問題もありませんでした。それまでの演奏も含めて。
TDL.icon リハーサルは公開されていませんでした。オーケストラの合同練習も一部に公開されていただけです。私も一部分しか演奏を聴いていません。それでもすばらしい曲だとわかりました。新聞も一般紙で通しで許可されたのはタイムズだけです。それはすばらしいものと珍しく褒めていましたが、一部の人だけがその特権を享受したともいえます。それでも再演はないのでしょうか。
AG—楽譜は草稿含めすべて破棄しました。もう二度と再現できるとも思えません。あの日の演奏で完成してしまったのです。私の中にももうあの曲は残っていないような気がします。
TDL.icon そうですか。実は、演奏していた楽団員の仮想人格から演奏を再現できないか調べた人がいるようです。そんなに驚かないで下さい。仮想記憶の権利問題はまだ決着していません。しかし、その調査も無駄でした。 演奏時の記憶はあるのですが、それを再現できなかったのです。その部分だけ鍵がかけられているようでした。仮想人格の研究も長いこと行われていますが、まだまだわかってないところも多いようです。
結局、幻の楽曲となりそうですね。
話は戻りますが、演奏会のあの仕掛けはやはり、《高潔なる窓辺の謎》の仕業でしょうか。その《高潔なる窓辺の謎》とも一時期一緒にいたといわれていますが、その正体はご存知なのでしょうか。 AG—おそらく彼がやったのでしょう。演奏を独占したかったのかな。なんらかの仕組みであの演奏を盗み出したのかもしれない。単純に蓄音機のように記録するという話ではないだろうけどね。先ほど、仮想人格の話も出ましたが、音楽は楽譜を再現すればいいというものではありません。仮想人格による演奏会を聞いたことがありますが、ただ楽譜を再現しただけであって、それは音楽の演奏とはちがうものです。このあたりは、音楽家とそうでない人では違いがありそうですけど。
音楽はあくまで、演奏によって形成される場のようなものです。音楽家と聴衆と、音楽が伝播する空間そのもが演奏のすべてなのです。楽譜も演奏家もその一部でしかありません。だから、その一部だけを切り取っても音楽とはいえないのです。《高潔なる窓辺の謎》は不思議な人物です。たしかに犯罪者という一面もありますが、必ずしも利益を得るために行っているわけではないようです。芸術品などを盗んでもあとで返したりしていますからね。一時期彼の手にあるだけです。擁護するわけではありませんが、彼自身が芸術といっていいかもしれません。
今回の曲はもう彼のものといってもいいでしょう。
あの曲は彼によって奪われたがゆえに完成した。それは再現不可能です。そういう運命なのでしょう。そういえばあの日のコンサートではベートーベンの交響曲第5番(運命)も演奏されていましたね(笑)。
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ガゥアー氏はこう述べているが、実際にあの場にいた聴衆にとっては納得できるものではないだろう。
完ぺきな演奏が行われたのに、それを聴くことができなかった。その不満は、食べ物を前にしているのにお預け状態の犬のようではないか。
実際、あの場にいた聴衆で、もう演奏会や音楽を聞かなくなってしまった人もいるという。当然だろう。そこに完全なものがあったのではないかという記憶は、仮想ではなく、現実のものである。
《高潔なる窓辺の謎》が盗んだものを一時的に所有するだけということであれば、再び演奏される日もあるかもしれない。しかし、氏のいうようにそれがはたして完璧な演奏といえるかは誰にもわからないのである(スコットランド某所にて)。
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